読みました。本の感想です。
この先、性暴力の被害者の方はショックを受ける表現もあると思いますので、ご注意ください(とはいえ、こんなメモ書きブログに誰かが来るとも思えないのですが、念のため)。
…なんだ急に!?となったかもしれないけれど、ソーシャルワーカーの斉藤章佳さんと、写真家のにのみやさんの共著本のタイトルです。性加害者たちと、性被害者でもあるにのみやさんの対話と往復書簡に焦点を当て、なぜ加害者が何度も性加害を行うのか、どうしたら止められるのか、そしてこれ以上被害者や加害者の連鎖を止めるためにはどうすれば良いのか、という観点で書かれた本。
海外だと「修復的司法」という考え方によって、犯罪があった際に加害者と被害者の家族どうしが、対話をすることで納得できる落とし所を見つけていく、という方法があるらしい。当然それは日本では行われていない(私怨っぽいがこの書き方はかなり皮肉を込めている)らしく、本書は性暴力に関して似たような取り組みを先進的に行なった経過を書いたとも言えそう。ありがたい。
私は「なぜ加害者は加害するの?」ということを考え続けてしまうので、何か納得できるのではという淡い期待を込めてこの本を読んだわけだけれど、結果として完全に加害理由について腑に落ちたわけではなかった。たぶん、自分の加害者から納得いく理由を聞けていないから、何かまだ本人から納得できる理由が聞けるのでは、と期待している部分があるからだと思う。けれども、読んで良かったと思った。この世に自省できる人がいることがわかったし、加害の内容も当然一人一人違うのだけれど、同じような思考で加害に陥るのだなということがわかったので(もちろん支援に繋がれた人の中での話なので、もっといろんなパターンはあるのかもしれない)。
読む前は、加害者の身勝手な言い分や自分の罪と向き合わない態度が書いてありそう、と思って自分の傷が抉られないか緊張した。当然、加害者の言い分に怒りを覚えるような部分もあったが(とはいえ基本的にそのような部分は、予め被害者側が読む際には注意するよう書いてある)、何の考えもなしにあけすけに全てが書いてあるわけではなく、加害者が加害に陥るプロセス、被害者の被害後の人生、そして両者が考える赦しについて、「どうしたら人は傷つけ合わずに生きられるのだろう」というある種の祈りみたいなものを中心に据えて、慎重に書かれているような印象を受けた。悲観的になりすぎず、かといって楽観的すぎもせず。
あとがきでにのみやさんが書いていたけれど、「自分に加害してきた相手を未だ自分の手で殺したいと思うことがある」、「支援に繋がれば、そう思うことはなくなるのかもしれない」という言葉には共感しかない。にのみやさんの言葉は終始、自分のもやもやを代弁してくれているようだった。にのみやさんには、性暴力に限らず加害と被害の連鎖をもう止めたいという強い思いが根底にあるのだな、とわかったけれど、それは被害から時がたって、PTSDと解離とともに生きてきたからこそ辿り着けたにのみやさんだけの境地なのだなと思う。たぶん、ひとりひとりどこに辿り着くかは違って、自分がにのみやさんみたいな境地に辿り着けなくても、別にそれはそれで良いのかもしれない。けれども、加害と被害の連鎖を止めたいというのはとてもわかるし、一番意味のあることだとは思う。
加害者は、「被害を受ける前に戻って、明るく生きて欲しい」なんて書いていたけれど、まずそれが違うと思う。下手すると、支援してくれる人からも「もう忘れて」と言われることがある。本当にありえない話だと思うけど、私は心療内科の医者からすらそういうことを言われた。
性暴力は、そのときの行為を覚えているから辛いというより、その経験によって自分の信じてきたものとか、人生の選択とか、人格が一度破壊されて、その状態で生きていかなければいけないから辛い。乗り越えるとか、そういう表現がそもそも違う。人ではなく物として扱われるような経験をしたら、無意識にでも自分自身の価値観や肯定感は壊される。そうやって壊された状態から、いやでも生きていかなればいけないから辛い。価値観や自己肯定感、ここが安全かという認識の修復さえ、いくら助けてくれる人がいるとは言っても、どんなにしんどくても最後は自分で行わなければいけない。
だから、「昔の記憶なんだから忘れれば良い」という認識自体が違うと思うし、そもそも普通に経験した辛いことの記憶とは全然違っていて、もう一度体験させられる種類の記憶だから、忘れたくても忘れられない。忘れたと思ってもふと襲われる瞬間がある。
こういうことは繰り返し似たような表現でいろんな人が語るけれど、たぶん経験しないと真に理解はしてもらえないのだと思う。
ごはんを食べられないとか、寝れないとか、そもそも寝ても怖い思いをするので寝たくないとか、でも寝ないとどんどん体が壊れていくのとか、意味もわからず急に恐怖が蘇って死にたいとか、実際の体調で伝えるとかしかできないかもしれない。
自分にも、ある出来事があってから、誰と話していてもその人とはシャッターが一枚あって、同じ場所には二度と戻れないと感じていた(比喩ではなく本当にそう感じていた)。「なぜ仕事をしているのか」、「なぜ生活しているのか」など、目の前のことに全て現実感がなく、足が少し地面から浮いているような気がしていた。仕事での大事な発表も、緊張するはずの場面も、ただなんとなく目の前を過ぎていて、目の前のことをこなしているのに心が動かなくて、何か変だというような気がしていた。もしかしたら度胸がついたのかななんて思っていたけれど、心がずっと凪いでいたというか、あまり現実感なくいろんなことが目の前を過ぎていったという感じだった。当時はしんどい出来事がしんどいということを認めるのも拒否していて、何もわからなかった。
そんな状態が1年くらい続いて、助けを求められた後でシャッターがある感覚は気づくと薄れてたのだけれど、正直自分が今ここに存在しているのか、現実感があるのか、ということは未だによくわからない。ただ、自分が好きなことを人より下手でもまっすぐにしぶとく楽しみながらやる、という熱意みたいなものは、前のように戻ってきていないことは確か。もちろん、日々自分なりに好きな仕事をできていて、周囲が助けてくれていることは確かだし、少しずつその感覚を戻せるようにどうにかもがいてはいる。だけど以前の自分、そこまで苦しかったかな?こんな不自然だったかな?と思わずにはいられない。そうなると、やっぱり前の自分にはなかなか戻れていないということで、それが一番悲しいな、と思う。前みたいに戻りたいと思う。好きなことは好きで、自分なりにやり込むのは、唯一自分のちょっと好きな部分でもあったから、「あー確かに一番大事にしてた部分が壊されているな」とこの本を読んで気づいた。
あと最後に、加害者がなぜ加害をするかということについての本文での記述は、やはり衝撃を受けた。「たまたまそこにいる人がターゲットになる条件をクリアしていた。それに選ばれただけ」という言葉。
「たぶんそうだよなあ(笑)」とは思っていたけれど、本にきっちり書いてあると割とショックというか。それでも「いや他にも何かあるのでは」と思う気持ちもあるし。私も本人からは聞けていないし。
けれども、相手に聞いたときにちゃんとした答えが返ってこなかったのも、表面だけの謝罪が上滑りしていたのも、結局は自分の自尊心を加害行為でしか満たせないから、相手は加害しやすくてバレなければ誰でも良かったんだろうというのは、ものすごく腑に落ちる。だから自分もショックを受けるのだろう。
やっぱり物みたいに扱われていたんだな、という気持ちも当然あるけれど、自分に非があるわけではないんだな、という気持ちもあって、複雑だけど少し安心もある。別に物みたいに扱われたからといって、自分という人間の価値がなくなるわけでもないし。私は物ではないし(自分に価値がないんだ、もう消えたい、としか思えないときに聞いたら場合によっては被害者の命を危機に晒すようなまずい発言ではあると思うが)。
まあなんか半分以上自分の話を書いているのだけれど、とにかく読んで良かった本ではあると思う。しかし性暴力に関する人々の理解はめちゃくちゃ浅く(というか、自分も以前はそうだったから被害を被害だと気づけなかった)、それが被害者をさらに追い込み加害者を守る、そして次の加害者を作る、という完全に誰も得しないループがうまくまわっちゃってるとは思うので、こういう本はどんどん読まれてほしい。というか、被害者が悪くなくて加害者が何もしなけりゃ被害者なんて生まれない、ということはもっと刷り込まれないといけない。強盗とか殺人なら誰も被害者責めんだろ。とにかくこれに尽きる。頼むから被害を受けた側に、潔白さとか回復とか、いろいろ求めないでくれ。そっとしておいてくれ。そういう気持ち。