『性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ』

読みました。本の感想です。

この先、性暴力の被害者の方はショックを受ける表現もあると思いますので、ご注意ください(とはいえ、こんなメモ書きブログに誰かが来るとも思えないのですが、念のため)。

 

 

…なんだ急に!?となったかもしれないけれど、ソーシャルワーカーの斉藤章佳さんと、写真家のにのみやさんの共著本のタイトルです。性加害者たちと、性被害者でもあるにのみやさんの対話と往復書簡に焦点を当て、なぜ加害者が何度も性加害を行うのか、どうしたら止められるのか、そしてこれ以上被害者や加害者の連鎖を止めるためにはどうすれば良いのか、という観点で書かれた本。

海外だと「修復的司法」という考え方によって、犯罪があった際に加害者と被害者の家族どうしが、対話をすることで納得できる落とし所を見つけていく、という方法があるらしい。当然それは日本では行われていない(私怨っぽいがこの書き方はかなり皮肉を込めている)らしく、本書は性暴力に関して似たような取り組みを先進的に行なった経過を書いたとも言えそう。ありがたい。

私は「なぜ加害者は加害するの?」ということを考え続けてしまうので、何か納得できるのではという淡い期待を込めてこの本を読んだわけだけれど、結果として完全に加害理由について腑に落ちたわけではなかった。たぶん、自分の加害者から納得いく理由を聞けていないから、何かまだ本人から納得できる理由が聞けるのでは、と期待している部分があるからだと思う。けれども、読んで良かったと思った。この世に自省できる人がいることがわかったし、加害の内容も当然一人一人違うのだけれど、同じような思考で加害に陥るのだなということがわかったので(もちろん支援に繋がれた人の中での話なので、もっといろんなパターンはあるのかもしれない)。

読む前は、加害者の身勝手な言い分や自分の罪と向き合わない態度が書いてありそう、と思って自分の傷が抉られないか緊張した。当然、加害者の言い分に怒りを覚えるような部分もあったが(とはいえ基本的にそのような部分は、予め被害者側が読む際には注意するよう書いてある)、何の考えもなしにあけすけに全てが書いてあるわけではなく、加害者が加害に陥るプロセス、被害者の被害後の人生、そして両者が考える赦しについて、「どうしたら人は傷つけ合わずに生きられるのだろう」というある種の祈りみたいなものを中心に据えて、慎重に書かれているような印象を受けた。悲観的になりすぎず、かといって楽観的すぎもせず。

あとがきでにのみやさんが書いていたけれど、「自分に加害してきた相手を未だ自分の手で殺したいと思うことがある」、「支援に繋がれば、そう思うことはなくなるのかもしれない」という言葉には共感しかない。にのみやさんの言葉は終始、自分のもやもやを代弁してくれているようだった。にのみやさんには、性暴力に限らず加害と被害の連鎖をもう止めたいという強い思いが根底にあるのだな、とわかったけれど、それは被害から時がたって、PTSDと解離とともに生きてきたからこそ辿り着けたにのみやさんだけの境地なのだなと思う。たぶん、ひとりひとりどこに辿り着くかは違って、自分がにのみやさんみたいな境地に辿り着けなくても、別にそれはそれで良いのかもしれない。けれども、加害と被害の連鎖を止めたいというのはとてもわかるし、一番意味のあることだとは思う。

 

加害者は、「被害を受ける前に戻って、明るく生きて欲しい」なんて書いていたけれど、まずそれが違うと思う。下手すると、支援してくれる人からも「もう忘れて」と言われることがある。本当にありえない話だと思うけど、私は心療内科の医者からすらそういうことを言われた。

性暴力は、そのときの行為を覚えているから辛いというより、その経験によって自分の信じてきたものとか、人生の選択とか、人格が一度破壊されて、その状態で生きていかなければいけないから辛い。乗り越えるとか、そういう表現がそもそも違う。人ではなく物として扱われるような経験をしたら、無意識にでも自分自身の価値観や肯定感は壊される。そうやって壊された状態から、いやでも生きていかなればいけないから辛い。価値観や自己肯定感、ここが安全かという認識の修復さえ、いくら助けてくれる人がいるとは言っても、どんなにしんどくても最後は自分で行わなければいけない。

だから、「昔の記憶なんだから忘れれば良い」という認識自体が違うと思うし、そもそも普通に経験した辛いことの記憶とは全然違っていて、もう一度体験させられる種類の記憶だから、忘れたくても忘れられない。忘れたと思ってもふと襲われる瞬間がある。

こういうことは繰り返し似たような表現でいろんな人が語るけれど、たぶん経験しないと真に理解はしてもらえないのだと思う。

ごはんを食べられないとか、寝れないとか、そもそも寝ても怖い思いをするので寝たくないとか、でも寝ないとどんどん体が壊れていくのとか、意味もわからず急に恐怖が蘇って死にたいとか、実際の体調で伝えるとかしかできないかもしれない。

自分にも、ある出来事があってから、誰と話していてもその人とはシャッターが一枚あって、同じ場所には二度と戻れないと感じていた(比喩ではなく本当にそう感じていた)。「なぜ仕事をしているのか」、「なぜ生活しているのか」など、目の前のことに全て現実感がなく、足が少し地面から浮いているような気がしていた。仕事での大事な発表も、緊張するはずの場面も、ただなんとなく目の前を過ぎていて、目の前のことをこなしているのに心が動かなくて、何か変だというような気がしていた。もしかしたら度胸がついたのかななんて思っていたけれど、心がずっと凪いでいたというか、あまり現実感なくいろんなことが目の前を過ぎていったという感じだった。当時はしんどい出来事がしんどいということを認めるのも拒否していて、何もわからなかった。

そんな状態が1年くらい続いて、助けを求められた後でシャッターがある感覚は気づくと薄れてたのだけれど、正直自分が今ここに存在しているのか、現実感があるのか、ということは未だによくわからない。ただ、自分が好きなことを人より下手でもまっすぐにしぶとく楽しみながらやる、という熱意みたいなものは、前のように戻ってきていないことは確か。もちろん、日々自分なりに好きな仕事をできていて、周囲が助けてくれていることは確かだし、少しずつその感覚を戻せるようにどうにかもがいてはいる。だけど以前の自分、そこまで苦しかったかな?こんな不自然だったかな?と思わずにはいられない。そうなると、やっぱり前の自分にはなかなか戻れていないということで、それが一番悲しいな、と思う。前みたいに戻りたいと思う。好きなことは好きで、自分なりにやり込むのは、唯一自分のちょっと好きな部分でもあったから、「あー確かに一番大事にしてた部分が壊されているな」とこの本を読んで気づいた。

 

あと最後に、加害者がなぜ加害をするかということについての本文での記述は、やはり衝撃を受けた。「たまたまそこにいる人がターゲットになる条件をクリアしていた。それに選ばれただけ」という言葉。

「たぶんそうだよなあ(笑)」とは思っていたけれど、本にきっちり書いてあると割とショックというか。それでも「いや他にも何かあるのでは」と思う気持ちもあるし。私も本人からは聞けていないし。

けれども、相手に聞いたときにちゃんとした答えが返ってこなかったのも、表面だけの謝罪が上滑りしていたのも、結局は自分の自尊心を加害行為でしか満たせないから、相手は加害しやすくてバレなければ誰でも良かったんだろうというのは、ものすごく腑に落ちる。だから自分もショックを受けるのだろう。

やっぱり物みたいに扱われていたんだな、という気持ちも当然あるけれど、自分に非があるわけではないんだな、という気持ちもあって、複雑だけど少し安心もある。別に物みたいに扱われたからといって、自分という人間の価値がなくなるわけでもないし。私は物ではないし(自分に価値がないんだ、もう消えたい、としか思えないときに聞いたら場合によっては被害者の命を危機に晒すようなまずい発言ではあると思うが)。

 

まあなんか半分以上自分の話を書いているのだけれど、とにかく読んで良かった本ではあると思う。しかし性暴力に関する人々の理解はめちゃくちゃ浅く(というか、自分も以前はそうだったから被害を被害だと気づけなかった)、それが被害者をさらに追い込み加害者を守る、そして次の加害者を作る、という完全に誰も得しないループがうまくまわっちゃってるとは思うので、こういう本はどんどん読まれてほしい。というか、被害者が悪くなくて加害者が何もしなけりゃ被害者なんて生まれない、ということはもっと刷り込まれないといけない。強盗とか殺人なら誰も被害者責めんだろ。とにかくこれに尽きる。頼むから被害を受けた側に、潔白さとか回復とか、いろいろ求めないでくれ。そっとしておいてくれ。そういう気持ち。

『加害者は変われるか?DVと虐待を見つめながら』

加害者とは何者なのか。なぜ加害者は同じ人間の恐ろしいことを平気で行い、どうして自分がそのような目に遭わなければならなかったのか。結局は彼らの中に答えはなく、聞いても無駄だと諦めてからはずいぶん楽になったが、そういう問いが完全に消えることはない。

DVや虐待に遭ったかと言われると、全く自分は遭っていない。しかし本書解説の牟田和恵さんの指摘通り、DV加害者とハラスメント加害者は驚くほどよく似ている。「自分がこのような(性)暴力を振るうのはお前のせい」、「自分だって苦しい、傷ついている」など。信じられないかもしれないが、暴力を受けた後に責任を転嫁され、それを何度も繰り返されると本当に自分のせいかと思ってしまう。被害者は自分を加害者だと思い込み、加害者は自分こそ被害者であると思っている。DVの事例を読んでいて、自分の受けたセクハラのことを思い出していた。しかもDVもセクハラも、基本的に被害者が逃げるしかない。それは生活の糧(すなわち家や仕事)を失うことに直結するし、「なぜ自分が逃げなければいけないのか」という理不尽からも、簡単に逃げることはできない。

今でこそようやく少しずつ、DVやハラスメントが理解されてきたのではないか(DVはより知られるのが遅れている気もするが)と思うが、被害を受けたときに助けてくれる制度があるかと言われると、絶望的なくらい自衛を求められているとしか言いようがないように思う。特に被害が軽いうちは、なんとか仕事や生活を維持しようとするが、加害者はその間に加害行為をエスカレートさせるし、かといってその時点で相談したとて、相手が職場からいなくなるわけでもない。本当に、一度ターゲットになれば終わりと感じる。

加害者は被害者のことを同じ人間と見ていない。だから、信じられないほど酷いことを平気で行う。でも、加害者を理解不能なものとだけ見ても良いのだろうか。誰かを排除するのは簡単だが、そのようなことを続けるだけでは、被害者側が逃げることを強いられ、保護されるだけの存在として無力感を与えはしないだろうか。加害者にも責任を返し、自身の内面と向き合ってほしい。他者が自分と同じ人間であることを理解してほしい。何度でも同じことを思うのだが、そういうことを考えながら読んだ。

美しいことは才能である、みたいな話に感じたモヤモヤ

ここ最近だと思うけれど、モデルさんか何かのアカウントで「美しく生まれたことは才能である」みたいな趣旨の長めのツイートがバズっていた気がする。炎上とかではないと思う。そこには美しく生まれたことによる優遇や周囲の評価をもってして、タイトルのような主張をしていた気がする(誤読である可能性もある)。なるほどなあ、と思うと同時に、強烈に違和感があったのを急に思い出した。

 

自分が美しさを持たないからモヤモヤした、ということだと思っていたのだが、たぶん「それってお金持ちの家に生まれたこととか、日本に生まれたことを才能だと呼んで、そうではない人々に個人の責任だと暗に言うことと何が違うんだ?」という疑問があったからだと思う。こういうときに間違いなくあがってくるものとして、「じゃあ頭の良さはなぜ問題視しないのか」というものがあるのかなと考えたが、それは頭の良い(とは何だと説明しづらいのもあるが)人々が「自分の頭の良さは才能であり、そのおかげで良い思いをしているのだ」と言い始めない限りは、同じ議論の俎上には載せられないように思う。問題は、何かしらの才能を持っている者が、自分が選ぶことのできない要因をさも個人の努力の結果であるというような見せ方をすることで、持たない者に対する自責や持たなくても良い責任や無力感を発生させることではないだろうか。

 

最近、境界知能の方の生きづらさという記事を読んだ。境界知能と判断される方は、この世の中が知能によって測られ、最も頻度が高い知能の人間に合わせて世の中が作られる限り、間違いなく発生する。そういう方から見れば、恐らく1番発生頻度の高い知能あたりに存在する自分は才能があると見える。しかしそれを私自身が誇りかのように言うのはどうなんだろう、と思う。多数派であることは、だいたいにおいて特権となる場合が多いと思う。少数派がそれによって苦しんでいるならば、その特権を「才能」などと呼ぶことは誰かの苦しみを持続させることに他ならない。世の中の歪みに気を配るのが最低限必要かと思う。そういった歪みを才能と呼び、それに納得する人が多い限り、維持された特権は誰かを傷つけ続けるし、自分もまた少数派であるときに傷つけられるんだろうなと思った。

『善の研究』ひとくちメモ

この本を何年熟成(積読)してたんだろう。大学生のときに、何かの会話で同級生が「読むか、善の研究…!」と言っていたのを聞いて、タイトルかっこよくて買ったはいいが、気力がなくて少なくとも7年は寝かせてた気がする。てか、学部生だった時代が7年以上前なの普通に怖いんですが。

縦書きの本って読めちゃう気がするからあかんと思うのだが、専門の方からしたら怒られそうなことを感想として持ったのと、けっこう自分的には大事な気づきだったのでメモ。

哲学の内容だったので、自分は全くの専門外だが、ヒトの動作について脳がどういう役割を果たすのかという割とふわっとしたことに関して、いろいろと気づきをくれるものがあった。運動が意識にのぼる際にはそれはもう過去になっている、というのも言われてみればそうかも、と。

あと、脳のはたらきについて化学的な理解が進んだとして、ヒトは何か自分では変えようのない法則に従って動いているだけで、自由な意思が存在しないと言い切れるのか、という疑問も投げかけられる。私は当たり前に「なんかミクロな視点での法則に従っているなら、人のマクロな動きも全部それらの結果では」と思っていたんだが、西田氏はそうは考えない(たぶん。理解が間違っていたら教えてください)。意思というものがさらに上にあるのだと。

じゃあその意思はどこから生まれるのかという気もするんだけど、ミクロがわかったからといって全てわかるわけではないぞ、というのをこうやってはっきり指摘しているのは自分がよくみる文献だとあまりないような気がした。今ある分子生物学などの知見が重要なのは言うまでもないが、「じゃあそういう手法を使えないあなたは、人間を理解するために何を調べるべきなの?もっと柔らかい頭で考えなさいよ」と言われた気がしたのであった。にしてもヒトを理解したいって気持ちはいろんな分野で滲み出てくるもんだなあー。

読んだ小説の感想

ここ1ヶ月くらいで読んだ小説の感想たち。

 

【グレート・ギャッツビー/スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳】

一言で言って難しい。なぜなら全てが曖昧だから。何が起こっているのか把握するためには、注意深く読まなければならないだろう。訳者の解説にもあったように、美しい文章の流れを楽しむ、という読み方も良いのだと思う。ちゃんと楽しむなら原文で読むべきなのだろうが…。特に冒頭の文章ははっと胸を打つほど美しい。思わず何回も読み直した。

内容は、ギャッツビーという謎の金持ちの隣の家に越してきた主人公が、周囲の人々との不思議なひと夏を過ごすというもの。ギャッツビーは育ちが裕福ではなく、初めて接した上流階級のデイジーという女性と恋人になるが、戦争に行った後は彼女とただ再会するためだけに裏社会で生きることになる。彼女と少し話をしたいだけ、それだけのために目立つ家を買い、派手なパーティーを開き、それでも来てくれない…。実はデイジーは主人公の親族だったので、主人公を通して再会するのだが、結局は2人は結ばれることはない。不幸なことに、ギャッツビーとデイジーが乗る車によって轢き殺されてしまった女性の夫に、ギャッツビーは殺され葬儀にもほぼ人が来なかった。終わり(私が理解した範囲の内容でしかないので、もしかすると間違いが含まれているかもしれない)。アメリカで大流行したとかで、なんとなくその理由はわかる気がする。ギャッツビーが過去に押し流されながらも未来に手を伸ばして生き、ずっとずっと自分の希望のために奮闘し続ける姿が、なんとなくアメリカっぽいというか。葬儀にすらほとんど人が来ないのが悲しすぎるのだが、不思議と結末が暗いわけではない。特異なのは、悲劇的なあらすじに対して、ギャッツビーの描かれ方がヒーロー然としているところだと思う。
名作的なものはあんまり読んでこなかったと思うが、こういうのはあんまり他にはない気がする。映画もあるみたいだし、どんな感じで描かれるのか見てみたい。

 

【椿姫/デュマ・フィス著、新庄嘉章訳】

めっちゃ美人な娼婦のマルグリットが真剣な愛情をアルマンという青年に向けられ、人生で初めて相手を愛するも、2人で平凡に生きていくことを決意してがそれを引き裂かれ、元の生活に戻った挙句に病に伏して倒れてしまう話。あらすじはめちゃくちゃシンプルだが、読むと家族という制度の縛りや娼婦の扱いが、どれほど個人の幸せを阻害しているかわかる…。ネタバレだが、平凡な暮らしができそうという目処が立ち、2人は幸せに暮らしましたとさ、ちゃんちゃん、と終わりそうなところでその生活を引き裂きにくるのは、アルマンの父親である。「我も息子たんが娼婦と暮らしてるなんて知れたら、名家としての栄誉がどうなるかわかっとるんかい。貴様が娼婦時代の自分の持ち物をすべて売り払って、田舎に引っ込んでたとしても、うちの息子たんがそうさせた、と噂になったらどうすんじゃい。仮に君らの仲が悪くなったら、君が関係を過去に持ってた相手を殺すとかの犯罪に、息子は走るかもよ?あと、うちの娘の婚約者も、身内にそんな娼婦と暮らしてる奴がいるなら婚約破棄じゃ、と言っとるけど?」と脅しをかける。そこでマルグリットは、そんなことならここで自分が身を引かねばなるまいと、アルマンに何も告げず元の生活に戻ってしまうのである。アルマンからしたら、「やっぱ娼婦に騙されていたのか」というわけで、病に侵されているマルグリットの前で新しい恋人を金で作ろうとするなど、嫌がらせの限りを尽くす。なぜマルグリットが目の前からいなくなったのか、真相は彼女が死んだ後に知ることになる。

この本がただの悲恋でないと思うのは、マルグリットの生い立ちゆえだろう。職業差別と性差別。読み始めからさまざまなひどい言葉が出てくる。自分たちの性欲を向けながらも、差別の対象とする。気持ち悪いもんだと思った。別に遠い話だとも思えないのが怖い。結末はマルグリット1人の犠牲によって、尊い者というように締め括られ、「でもこの話は例外だよ」というような結末までついている。

父親の脅しも脅しで、マルグリットとの対話の末に「わかった。私はわかったが周囲の人間はどう思うかね」という言葉まで出している。いや、まず3人で話し合えや。若い娘だけだったらうまく言いくるめられると思ったんやろがい。

まあこのへんは私が深読みしすぎな可能性があり、美しい話として書かれているように見えるので椿姫が好きな人には申し訳ない。2人の恋愛以外の要素において、現代にも通じる性差別や家族制度や世間体の気持ち悪さが出過ぎていた。18世紀の話だけれども、割と昔から社会とかのしがらみは変わんねえなと思う。

ジェノサイドの本を読んだ

新年度になってしまって、自分ではどうしようもないことがまだ解決していなくて、自分で制御しようのないことを待つことにものすごく疲れている。民事裁判とか時間のかかることをやる人たちは、本当にどれほどしんどいのだろうかと思うと同時に、やらないとどうしようもないのだろうなということも想像する。もうなんか疲れすぎていたので、自分以上にどうしようもない状況と命の危機すら感じる場所で生きなければいけな人たちのことを知るしかないと思って、ジェノサイドの本を読むことにした。前に書いた気がするが、ネージュ・シンノの『悲しき虎』に、性虐待の被害者について考える際、いつもジェノサイドの被害者が思い浮かぶという記述があった気がしたので、性暴力被害とジェノサイドの共通点が多いというのは自分の気づきではない。とりあえず地元の図書館に行って、いくつか読んでみた。『大量虐殺の社会史 戦慄の20世紀』(松村高夫、矢野久 編著)、『人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派、語る』(舟越美夏)、『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』(フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著、柳下毅一郎 訳)の3冊を借りてみて、自分の地理や世界史の知識(というか常識)のなさにまずビビった。こんな恐ろしいことが起こっていたことを、ほぼ知らずに生きていけてしまうということにも。虐殺自体の残虐さは言うまでもなく恐ろしいが、それを押し進めてしまう権力や、虐殺を虐殺と認めない先進国や司法の二次的な暴力だ。

『ルワンダの丘』はジャーナリストが当時の証言を当事者たちに取材しにいったものをまとめており、被害者らがジェノサイドから逃れる中での状況がどれほど恐ろしいかを知ることができる。ツチがフツに殺されていくという切迫した状況で、ホテルに軟禁されている市民が唯一残っていた電話の回線で先進国に助けのFAXを求めたことがあったようだが、しばらく助けは来なかった。「何万人も殺されている状況で、先進国はなぜ助けないのか?」、「助けを求める声を聞いて何ヶ月もたってから、ようやくジェノサイドを止める軍を送るかの議論を行うとは何なのか?」と、組織というものに対しての不信感が募る。被害者への配慮などというものは命が奪われている状況ですらゼロに等しく、あるのは「組織(国)が責任を取りたくない」ということなのだと思った。

さらに、虐殺が終結した後、ツチの帰還先にはフツが隣人として普通に生活をしている。その相手は、自分の親戚を殺した者だったりする。信じられない話だ。人を殺した者が、虐殺の責任者ではないという理由で何事もなかったかのように普通に生きている。想像することも恐ろしかった。

これらの本の中で貴重なのは、加害者側の証言であると思う。ポル・ポト派の幹部しかり、ジェノサイドに加担した市民しかり、彼らのほとんどは虐殺を否定する。革命には必要で自分は人を殺したくなかった、国に言われた、従わないと自分が殺された。さまざまな言葉が出てくるが、全員に一貫しているのは、自らの責任に正面から向かい合うことができない点だろう。口から出てくるのは表面上の反省だけで、自分は恐ろしいことに加担したと心からは言えないでいる。本当に向き合った者は生きてはいけないと思う。彼らの弁明にはほとんど意味がなくて、本当にがっかりする。この人たちが赦されることはないだろうなと思う。生き残った側ができるのはなんだろうかと考えていて、たぶんみんな同じようにどう生きていくかを毎日考えざるを得ないのではないだろうかと思った。

ノンフィクションを読んで思うのは、自分の世界への認識の甘さと無知さばかりで、何か得るものがあるのかと言われたら、やはり自分への慰めばかりでそのこと自体にも辟易する。ただ、「自分が動いたって仕方がない」、「こんなことはどこでも起こっている」、「組織というのはクソだ」と言うばかりで目を背けるのはただの怠惰だと感じる。だからと言って1人ができることには限界があるのだが、「今何が起こっているかを正しく知る」のが大事だという、どこかの現代文の問題か何かで見た文言は本当だと思う。私が読んだ本は数十年前に起こったことばかりだが、今まさに起こっている戦争は、正しく知ることのあるひとつだろう。右翼と左翼という分断や排外主義も、戦争の土壌であると感じる。何が起こっているかを把握して、声をあげないといけないときが来ているのかもしれない。

『嘔吐』

ゲボ。ゲボって吐く直前って死ぬかと思うくらい苦しいよね。

それでこれはサルトルの『嘔吐』の読書メモなんだけど、原題は『吐き気』らしい。訳者さんが、吐き気の持つ軽めの意味合いがしっくりこなくて『嘔吐』にしたとか。嘔吐の方が確かにかっこいいよね。漢字だし。

 

サルトルといえば哲学者で実存主義の人らしい。実存主義とはざっくり言えば、「人は生まれながらにして役割や意味を持つのではなく、自分で役割を探していくんだよ〜」ということらしい。こう聞くと「なんだ普通じゃないか」という気がするが、『嘔吐』はそこに悩みまくるのである。読んでるこっちが吐きそうなくらいに。ということで哲学の知識があった方が楽しめそうなものだが、私はその程度の知識だけで普通に楽しんだ。サルトルの手腕だ。すごいな〜(小学生並みの感想)。

 

ところで人生を退屈だと感じた瞬間ってないですか。唐突に襲ってくる虚無。毎日大学行って、就職して、働いて、定年して余生を過ごして、それで最後は何になるのかと、あと何十年も毎日飯食ってクネクネして寝て起きて何になるんだって、退屈すぎると思ったことはないですか。

私はある。うっすらと頭の中でずっとそういうふうに感じていた時期もあった。そう思う内心とは別に、毎日普通に通学して、友人とご飯食べて、授業行って寝るみたいな生活は普通にしていた。別に何が嫌とかはっきりした原因もなかった。

この本の主人公であるロカンタンは、30歳にして働く必要もない高等遊民のような生活をしている男性だ。小石を握ってその存在に「吐き気」を感じ、至る所で「吐き気」を感じるようになる。会話と風景の写実的すぎるほどの描写、終わることのない内省、そういうものの中で世界の見方がバンバン変わっていく。しかし別に終盤でかつての恋人に会いに行く以外、何かが起こるわけでもない。序盤は写実的すぎる風景描写にうんざりするタイミングが正直ある。しかし途中で自分も感じたことのあるような、世界への強いイラつきに気づいたら引き込まれて、「この世マジで無意味すぎ」と絶望し、最後には一縷の希望のようなものを感じて、読み終わるとものすごい冒険小説だったとぼんやりしてしまう。

この小説は退屈とどう付き合うのかということを突きつけてきた。偉そうな謎の金持ちや政治家、犯罪しても有能無罪とでも言うように飄々と生きる人々への憎悪と、だからといってなんなんだという虚無。ムカついて「虚無だ」と言ったとて、それは同時に同じ人間である自分にも返ってくるのだ。

 

身体の描写がすごい。キモい。自分の体が他人であるかのように描かれる。手は蟹、歯も舌も異物、吐き出したいのに吐き出せない。何をどう考えようが身体はそこにある。

性暴力の描写がうまい。ロカンタンは強姦の記事を読んだことをきっかけに、自分の意識が自分の体から離れて発狂する。

「独学者」の男が少年の手を愛撫するのを、男の手を男性器に例え、固まって動けない子どもの恐怖の描写。官能的な部分が1ミリも存在しない。

この男の感じている、自分という存在からの逃げきれなさと、人間はただ存在しているだけなのだという究極の退屈と諦め。自分を含めた人々は、それを仕事で埋めようとしているのだろうか。もし働く必要もないほどのお金があったらどうだろうと考えたが、どうにもすぐに飽きてしまう気がした。ロカンタンも、かつては世界中を旅して危険な目に遭ったり、羽目を外したりもしたらしい。しかし今は、とある男についての歴史を仕事でもなく書こうとする以外にやることがない。存在を意識した瞬間に退屈に囚われ、恐ろしいほどの自由に閉じ込められてしまう。

 

自分の身体から逃げられない感覚を、こんなに追体験するとは。私が失ったと感じていた世界や未来への希望や期待というのも、本当は最初からないものだったのかもしれない。未来や希望だと思っていたものは目の前の仕事であり、生活するための手段であり、人間が社会の中で作ってきたルールの中での物にすぎない。

人間は生まれながらにして意味を持つものでも、意味を与えてもらえるわけでもなく、それだけではただの存在だ。暴力の中で物のように扱われ、そういうことを意識してしまったのかもしれない。でもそういう風に自分を捉える人は少ない。誰とも分かち合えずに孤独を感じて、何も意味がないと感じるのにそれでも自分という体が存在して逃げられないことに絶望する。その逃げられなさが「吐き気」なのかもしれない。

 

終盤まで読んでどうしたらいいかわからなくなり、途方に暮れたあと、ロカンタンは自分の好きな音楽を聴きながら、それを作って歌った人たちに想いを馳せる。彼らが曲を作ったときは、お金になるぞとしか思わなかったかもしれないが、どうであれロカンタンが彼らのことを考えたことに意味がある。物事は後になってからしかわからず、生きているその瞬間を物語って意味づけることは誰にもできない。だが、誰かに考えてもらうことで、自分という存在を意味づけてもらうことができるかもしれない。なぜか自分が昔から持っていた「何か存在している意味を探さなければ、死ぬのが怖い」という焦りのようなものが、暴力によって本当に全然意味をなさなくなったが、また違う形で存在の意味を考えることになった。当たり前のことでしかないのだが、1人で生きることは真には無理だ。社会的に繋がっていなければ孤独で死ぬ。もっと卑近な例だが自分だってもう職場にいられないかもしれないと思い、何度死にかけたか。人間は孤独に対してあまりにも弱い。「人生死ぬまでの暇つぶし」という言葉を聞いたことがあるが、その暇つぶしを日々どうやるか、選択していくことが重要なのかもしれない。

新年度だー!

何も、新年度だー!では、ない。

八幡真弓さんの『トラウマの国のアリス』を読み、自分は割とレジリエンスの高い方というか、ずいぶんマシな方なのではないかと思っていたけれど、どうやらそれっぽい症状はたくさん出ていたっぽかった。異常なくらい突然手足が冷える、体が痛い、ぼんやりする、目の前が暗くなって落ちかける。

トラウマのせいにするんじゃないとか、今相手に会わずに済み、死んだも同然なのになんでこんなに日常をゆるゆると使い潰している感じなのかとか、とにかく自分を責めることが多い。でも、自分を奮い立たせるのを自分が拒んでいる。この先は危ない、とでも言うような。まだアイツはいるよ、前みたいに頑張ってたら同じ目に遭うよ、と誰かが言ってきているかのような。

じゃあなんであのとき死ななかったのか。誰に触れられたかわからなくなり、パニックを起こして身体中から血の気が引いていって、部屋で1人になったときに自分の胸に大きく開いた穴を、ぬいぐるみで塞がないと自分がそこから砂みたいになくなってしまうのではないかと思ったあのときに?

負けたくないと思ったからではないか。自分も自由も失ったまま消えたくなかったからではないか。私らしくなさすぎるからではないか。

自分の体に異常な反応が起こってパニックを起こしたとき、ああやっぱり嫌だったんだって、初めて安心した。それはものすごく怖い体験だったが、嫌だった、これ以上普通に振る舞おうとするのは危ないということを身体がわかっていた、としか言いようがない感覚だった。

時間が溶け出している。ひとつながりになって境がない。今しかない。過去も未来も関係がない。そういう中にいて、それでも生きているのでなかなか偉いと思った。やれることはやっている。でも自分の被害にはうまく向き合えない。距離をとらないと叫び出しそうになる。外の機関を使ってもっと騒ぐことだって本当はできるのに、それをしてしまうと不利になる。いざ目上の人間を前にすると言いたいことが言えない。加害者とどこで誰がつながって、どういう感情を持っているのかわからない。あのときの無力な自分と何も変わっていないと感じる。全然だめじゃん、加害される前の自分に追いつかなきゃ、というあせりがある。同じ職の誰にも言えていない。それが悔しい。孤独だ。いつかちゃんと言えるだろうか。言い訳をしているわけではないだろうか。いつか自分の時間はちゃんと前と後ろがまた分かれてくれるのだろうか。